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2016年7月

2016年7月11日 (月)

おじいちゃんはテーラー

母から聞いた話です。

私の祖父は、洋服の仕立屋=テーラー だったそうです。

祖父は、残念ながら、私の生まれるずっと前に亡くなってしまい、直接お話を聞くことができませんでしたが、母から聞いた事を、そのまま語ろうと思います。(その私の母も、20年前に逝去しているので、記憶を元に書かせていただきます)

<オーダー・メイド>

私の祖父は、大阪で「舟津洋服店」という店を構えていて、オーダーメイドのスーツや、コートを仕立てる仕事をしていました。

時は 昭和初期…

(ぐらいかな?母からは「昔」とだけ聞いていました)

この時代の日本では、洋服といえば、仕立て屋に作らせるのが、ごく普通のことだったそうです。

当時はまだまだ、着物を着ている人が多く(私のお婆ちゃんは私が産まれたあとも、着物を着ていました)、

洋服を着る人も、いたのはいたのですが、大抵は職業柄、そういった洋服を着なければいけない人だったり、よそ行きの服として使われたりです。

スーツは売っているのを買うのではなく、自分用のを作る。のが常識でした。

それに、現代において、オーダー・メイドの服は、めっちゃ高級品というイメージがありますが、当時の注文服は、それほど贅沢な品でもなかったそうです。

むしろ、スーツを着る時に必ず必要な、革靴。鞄のほうが値が張ったりしました。

<馬仲間>

おじいちゃんがテーラーとして活躍していた戦後、日本では、着物→洋服にシフトチェンジする人が増え始め、洋服の需要は右肩上がりに。おじいちゃんは、お客に困らず、豊かな暮らしをしていたそうです。

そんな、おじいちゃんの趣味は馬。よく猟銃を携えながら、愛馬に乗って狩りをしていました。

当時、おじいちゃんには、同じく馬の好きな友人が2人いたそうです。

一人は、お名前なんだったか忘れてしまいましたが、もう一人は、樫山さんという、おじいちゃん以上に、馬が好きな人で、樫山さんは競走馬も何頭か所有していました。

この3人組は、馬仲間というだけでなく、3人とも同じテーラー、洋服の職人で、、話が合い、親しい間柄だったと聞いています。

<樫山さん>

馬仲間であり、テーラー仲間のひとり、樫山さん。

樫山という名前、どこかで聞いたことはありませんか?

オン○ード樫山。

今や、知らない人はいない、洋服の最大手メーカーです。

いや、若い方の中には、聞いたことないという人も、いるとは思いますが、

「23区」「組曲」「自由区」「ICB」「TOCCA」「ANA SUI]

よく目にするブランド

これらみな、オン○ード系列のブランドです。

オン○ード樫山、その創始者が、おじいちゃんの馬仲間のひとりである、樫山さんでした。

<既製服>

当時、テーラーとして、各々別々の店をかまえ、注文服を作っていた3人でしたが

ある時、樫山さんがこう提案しました。

「一緒に、既製服をやらないか?」

海外では、とっくに大量生産の既製服が標準化している。

日本では、軍服以外の既製服はまだ浸透していないが、洋服を着る人が増え続けている今、これをやれば、爆発的に売れるだろう。

コストも格段に安い。これからは既製服の時代だ!と。

<職人気質>

このときの、樫山さんの読みは見事的中し、大成功を収めた訳ですが、

私のおじいちゃんは、樫山さんの「既製服」の誘いに対して、激怒したそうです。

「そんな大量生産の、どこぞの針子が縫ったかわからん切れ端に、お客の袖を通す気か!?」

「テーラーとしてのプライドっちゅうもんがないんか!?金儲けのために、俺は服を安う売るつもりはない!!」

根っから職人気質の、おじいちゃんは、樫山さんのお誘いを断り、仲違いしてしまいました。もう一人のお仲間さんは、話に乗ったか乗らなかったのか、今ではわかりません。

古臭くて頭の堅い、私のおじいちゃんとは違い、樫山さんは先見の目があり、柔軟な考えの持ち主だったのでしょう。樫山さんは、競走馬の馬主でもありましたから、挑む、ということにワクワクする人だったのかも知れません。あくまで想像ですが。

<手を…>

こうして、既製服派の樫山さんには背を向けて、昔どおりの仕立て服をコツコツ作り続けたおじいちゃんなのですが、

ある日、大きな出来事が起こりました。

馬に乗り、いつもの猟銃狩りに出かけたところ、手元の銃が誤って、持ったままの状態で暴発してしまったのです。

この日、おじいちゃんは片手を失いました。

職人にとって、大事な、大事な、商売道具である腕を。

<たられば>

腕をなくして、仕事をすることができなくなった、おじいちゃんは。

テーラーとしての人生を、諦めるしかありませんでした。

おじいちゃんは、洋服店をたたみ

故郷の石川県小松市から、大阪に出てきて銭湯を経営する人が多かったので、そのつてで、大阪市内に「白山湯」という銭湯を開いて暮らしました。

家族からは

「あのとき樫山さんの話に乗っていたら良かったのに!」

と、ブーイングの嵐だったようですが、

あとの祭りです。

これを書いている私としても

「じーちゃんがこの時、ビッグウェーブに乗っていたら、今頃ウチ大金持ちじゃない!?超有名人じゃない!?」

と、一介の「庶民」としては「もったいない!」という感想しかありませんが、

歴史に、たられば、はありません。

それに、もし、おじいちゃんにその気が少しでもあったならば、手を失ったときに、お風呂屋業界ではなく、真っ先に樫山さんを頼っていただろうと、思います。

<高度経済成長期>

その後、おじいちゃんは、私の母がまだ中学生ぐらいだった頃に、亡くなりました。

職人として、人生を全うできなかったのは、悔しかったと思います。

母は娘一人だったので、洋服屋の後を継ぎませんでしたが、

もし、男の子がいれば、おじいちゃんの失った腕の代わりに、働いていたのかな、なんて思ったりしますが、これも想像の域を出ません。

日本の高度経済成長期を前に、

大量生産の波に乗って資本を築く道と、職人肌のまま生き続ける道の、分岐点に立たされた仕事人は、洋服に限らず、あらゆるジャンルにおいて、大勢いたのではないかと思います。

おじいちゃんのような例も、この時代では「ままあること」でしたのでしょう。

「舟津洋服店」は、街の小さな店として生涯を終え、もう知る人もいません。

私の手元には、当時おじいちゃんが洋服に使っていた

古い、スナップボタンが遺っているばかりです。

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